4.副葬品から

先にも触れましたが、高尾山古墳は未盗掘の古墳でした。つまり墓泥棒に荒らされなることが無かった珍しい古墳なのです。古くから古墳には副葬品が埋納されているということは知られており、墓泥棒がそれを狙って古墳を盗掘するのです。言い方を変えれば古墳=宝物のありかなのですから、ほとんどの古墳が荒らされてしまったのもやむを得ないところです。

しかし未盗掘の割に高尾山古墳の副葬品は“地味”です(笑)。さすがに金銀財宝ざっくざっくというのは夢物語としても、玉などの装飾品はほぼ皆無ですし、金色をした副葬品も無いです。多く見られるのは槍や鉄鏃(鉄製の矢じりです)といった武器類。持ち主が武ばった人物であったことが想像される、色気はほぼ皆無、よく言えば質実剛健な副葬品です。

 

ここで高尾山古墳の副葬品を見てみましょう。

  • 槍2本
  • 鉄鏃(鉄製の矢じり)32点
  • 槍鉋(やりがんな:木工工具のかんなの一種)
  • 勾玉1個
  • 青銅鏡(後漢製)

 

槍のうち一本は、刃渡り41センチを超える大型のもので、樋と呼ばれる血抜き用の溝が切られた実用品と考えられるものです。槍については一定の規格性が認められることからヤマト王権からの配布品であったとの説と、そう断定するには材料不足であるとの説があります。

32点の鉄鏃は大きく分けて3種類に分類され、比較的高い規格性が見られるところから時代的に新しいもの(古墳時代的なもの)であるという考え方とともに、長野県の弘法山古墳に副葬された鉄鏃の中に見られた、儀礼用の特注品と考えられる鉄鏃が無いことから、総合的に判断して弘法山古墳と同時代のものであるという意見があります。

装飾品が勾玉一個と極めて少ないことは、真剣に高尾山古墳の築造に関係した人たちは“ケチ”だったんじゃないかという意見もあるようです(笑)。一般的にはこれは古い要素、つまり高尾山古墳が造られた頃の沼津では、まだ首長の装いとして玉を使うことが一般化していない、弥生時代の習慣が続いていたからと考えられています。また副葬された装飾品は勾玉一個なのですが、結構この一個の勾玉が問題になっているのです。実は製造場所が四国東部の吉野川流域との説がかなり有力で、そうなると四国から東海地方東部の沼津まで運ばれてきたことになります。四国からわざわざ運ばれてきたとすると、成立直後のヤマト王権との関わり合いも想定され得るところです。

鏡も一枚なのですが、これがまたユニークな鏡なのです。高尾山古墳の副葬品の鏡は正式名「上方作系浮彫式獣帯鏡」と呼ぶ、中国の後漢製の鏡とされています。高尾山古墳で発掘された上方作系浮彫式獣帯鏡は破砕鏡といって細かく割られています。これは弥生時代末期から古墳時代初頭にかけて見られる風習で、高尾山古墳が出現期の古墳であることの根拠のひとつとなっています。また上方作系浮彫式獣帯鏡はこれまでに全国で50枚近く発見されていますが、高尾山古墳のものは古い方のタイプで、かつ高規格のものとされています。そして上方作系浮彫式獣帯鏡もまた、成立間もないヤマト王権の配布品であるという説と、各地方の勢力が独自に入手したとの説があって対立しています。

このように高尾山古墳の副葬品は一見、地味ではあるのですが、成立間もないヤマト王権との関連性が見え隠れしているとともに、沼津の地域独自のあり方も留めており、弥生時代と古墳時代との時代の境界的な姿が良く現れているのです。

 

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