7.地域ネットワークと高尾山古墳

高尾山古墳の築造に関して、他の出現期古墳では確認されていない特徴があります。それは古墳の築造の前に、土地を最大2メートル削るという大規模な整地作業が行われていたのです。3世紀に重機などあるわけないのですから、文字通り人海戦術で整地を行ったわけです。当然当時としては最新の土木技術が使われたと考えられているのですが、これだけの土木事業、相当数の作業員を動員したものと考えられています。

 

さて、高尾山古墳を築造した首長の勢力範囲はどのくらいの大きさだったのでしょうか?まず浮島沼周辺の遺跡からは、高尾山古墳と同じく畿内系の土器がほとんど見られないということが知られています。高尾山古墳は浮島沼の東端から遠くない場所にあるので、まずは浮島沼周辺の勢力が考えられます。

 

しかし沼津周辺の東駿河には、浮島沼周辺とは異なった性格の集落がありました。まず愛鷹山山麓の丘陵地帯には、比較的外部との接触が希薄であったと考えられる足高尾上遺跡群があります。そして狩野川流域には畿内系土器が発掘されている、外部との活発な交流が想定されている恵ケ尾遺跡などがあります。高尾山古墳の位置は、まさに浮島沼周辺、愛鷹山麓、そして狩野川流域を繋ぐような場所にあります。つまり当時の東駿河の性格が異なる地域を繋ぐような場所に造られたのです。これは高尾山古墳の首長は一地域に止まらず、東駿河を代表する首長であったことを意味しています。地域ネットワークの長としてふさわしい場所が古墳の築造場所として選ばれたのです。なお、高尾山古墳に代表される東駿河の文化圏を広く取る専門家は、現在の神奈川県西部(相模川以西)から西は天竜川付近までという広大な地域を想定しています。

 

浮島沼周辺の遺跡は畿内との関係が希薄ですから、邪馬台国に敵対した狗奴国側の勢力であったとの見方も取りやすいです。しかし恵ケ尾遺跡のように畿内との交流が確認されている遺跡も高尾山古墳の被葬者の勢力範囲であったと考えられているので、狗奴国側の古墳であると断定することも難しくなります。古墳の立地から見ても、高尾山古墳の首長の位置づけはまだ未解明な面が残っています。

 

しかし高尾山古墳の被葬者は当時日本の各地で結成されていた広域ネットワークのひとつを手中に収めた、東駿河の地域ネットワークの長であったことは明らかでしょう。まさに古代東駿河が生んだ初代リーダー、王者と呼んでよいと思います。

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