1.はじめに

今から千数百年前、日本の各地で大きなお墓造りに明け暮れていた時代がありました。皆さんが学校での歴史の授業で習った「古墳時代」です。

 

日本でいったいどのくらい古墳が造られたのか、長い歴史の中ですでに無くなってしまった古墳も多いでしょうからもちろん正確な数字はわかりませんが、文化庁は約16万と言っているそうです。もちろんこの16万もの古墳は一気に造られたわけでは無く、最新の研究では3世紀から8世紀にかけての約500年間の間に造られたものと考えられています。

 

約500年間造り続けられてきたわけですから、ひとくちに古墳とはいっても最初の頃のものと終末期のものとでは様々な面で異なっています。古墳を造ることの意味も、500年間の間で徐々に変化していったと考えられています。

また古墳には様々な形があります。よく名前を聞く「前方後円墳」と呼ばれる、円形をした部分と方形をした部分の組み合わせたものの他に、方形と方形の組み合わせである「前方後方墳」、方形のみの「方墳」、円形のみの「円墳」。その他、八角形をした八角墳、下が方形で上が円墳という「上円下方墳」、更には円墳に小さな方形部がついた「帆立貝式古墳」などです。ここで紹介していく高尾山古墳は、方形と方形の組み合わせである「前方後方墳」です。

それぞれの古墳の形には意味があったと考えられます。つまり前方後円墳を造るということは、気まぐれや思いつき程度で前方後円墳にしたわけではなく、その形を選択した理由があったと見られています。

そして例えば前方後円墳、前方後方墳と言ってもその形や大きさ、あと古墳の諸要素は様々です。古墳は建造物のひとつですから、どうしても立地上の制約が出てしまうことがあることに加えて、大きくかつ豪華で被葬者の権勢が想像できるものからつつましやかな古墳など、多様性に富んでいます。

つまり古墳にはその古墳、その古墳の「個性」があるのです。古墳の個性は時代背景、そして被葬者の社会的地位、そして古墳が造られた地域の事情などが反映しています。

 

古墳の築造をするためには多大な資材、そして労働力をつぎ込む必要があります。ですから誰でも古墳に葬られたわけではなく、当時の社会でトップクラスの人たちが葬られることになります。また古墳はお墓なのですから、埋葬(いわゆるお葬式ですね)に際しては様々な宗教的な儀礼が執り行われ、埋葬後もお祀り(例えば三回忌のようなものに当たります)が行われ続けるのが常でした。

皆さんも聞いたことがあると思いますが、古墳には遺体とともに様々な副葬品が埋葬されました。副葬品には剣や矢じりのような武器類、そして鏡、玉類、工具などがあります。古墳の副葬品は古墳が造られた場所で調達されたものばかりではなく、各地から、遠くは朝鮮半島や中国などからもたらされたり、物によっては配布されたものもあると考えられています。副葬品は古墳に葬られた人物(被葬者といいます)の権威の象徴であるとともに、当時の交易の様子、そして政治的な動向を示すものでもあるわけです。

そして古墳の築造とは大きな土木工事です。多くの人々が動員されましたし、築造当時の土木技術の粋を集めて造られました。

従って保存状態の良い古墳からは、造られた当時の政治状況、社会の在り方、技術について、そして祭祀のやり方となどいった精神面、文化面の貴重な情報が手に入るのです。

 

またこれにはかなりデリケートな問題が含まれているのですが、一般的には古墳、中でも前方後円墳は当時のヤマト王権、つまり現在の大和盆地や大阪府付近を本拠とした王権の勢力範囲を示していると考えられています。王権とか勢力範囲とはいっても、古墳時代は縛りが強いものではなくて、同盟関係の延長というか一種の連合政権に近いものであったと考えられているのですが、ヤマト王権を中心とした秩序に加わっていたという証が、古墳であったと見られています。これが“古墳時代”という歴史用語の本来的な意味と考えていただいても良いでしょう。

 

沼津の高尾山古墳は3世紀前半から半ば頃、つまり古墳の中でも早い時期に築造されたと考えられ、東日本では最も古い古墳のひとつであるとされています。また東日本の出現期古墳では最大規模です。しかも築造後1800年近くを経過しているにもかかわらず、墓泥棒に荒らされることなく(未盗掘といいます)、古墳の外観についても比較的保存状態は良いとされています。つまり高尾山古墳は日本で最も早い時期の、造られた当時の政治、社会、文化、技術、宗教などを良く知ることができる古墳であるわけです。これから高尾山古墳について紹介していきたいと思います。

 

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