3.高尾山古墳の大きさ、形から

すでに紹介したように高尾山古墳は「前方後方墳」です。方形と方形を組み合わせた形の古墳を前方後方墳と呼びますが、現在確認されている数は全国で約500基、ちなみに前方後円墳は約4700基です。16万の中の500で、前方後円墳の1割強ですから、ちょっと珍しい古墳であることがわかると思います。一部の地域を除くと多く見られる墳形ではありません。

 

では前方後方墳というのはどのような古墳なのでしょうか?まず高尾山古墳のように古墳の中でも古い時代に造られたとされる古墳が多いです。例外もあります、出雲(島根県)では古墳時代の後期に至るまで前方後円墳が造られ続けますし、関東地方では古墳築造の終末期に前方後方墳が“復活”しています。しかしこれらは例外とされていて、一般的には前方後方墳とは古墳の中でも古いタイプの形だとされています。

また前方後方墳は東日本に多く見られるとされています。ただしこの特徴については、規模が大きな前方後方墳については大和盆地(つまりヤマト王権の本拠地)に見られるという点が無視できません。

まとめてみると、例外は認められるものの、前方後方墳とは古いタイプの古墳で、東日本で多く見られる……ということになります。そうなると古墳を造っていた時代の中でも古い時期、東日本には前方後方墳を造る“文化”があったことが推定されます。その“文化”の正体は、卑弥呼率いる邪馬台国に敵対していたとされる「狗奴国」であるとの推定もあります。つまり狗奴国の勢力範囲では前方後方墳に繋がる古墳、一方、邪馬台国の勢力範囲では前方後円墳となっていく古墳が築造されていたという考え方です。この説を唱える専門家の多くは、狗奴国とは今の東海地方を中心とした地域が本拠地であったと考えています。

 

東海地方に本拠地があった狗奴国が前方後方墳に繋がる文化の主であったとすると、後に詳しく説明しますが、同時代に造られたと推定される前方後方墳でも最大クラスの高尾山古墳は、狗奴国の有力者を葬ったとの仮説が成立することになります。

しかしこの説には批判があります。まず先にも説明したように、規模が大きな前方後方墳はヤマト王権の本拠地である大和盆地にあるという事実をどう説明すればよいのかということ、そして本当に古墳時代が始まる前後、東日本は前方後方墳が主流であったのかについても有力な反論があります。神奈川県海老名市の秋葉山古墳群3号墳のように、東日本でも出現期の有力な前方後円墳系の古墳もあるのです。

東日本の狗奴国の文化が前方後方墳を生んだという説の他に、古墳のヒエラルヒーから見て前方後方墳は前方後円墳のすぐ下、つまり前方後円墳を造ったリーダーより少し格下に当たる人物を葬ったと考える学者もいます。しかし高尾山古墳などの出現期の前方後方墳から考えると、本当に格下だったの?という疑問もあります。

このように前方後方墳の位置づけは、まだ定説がない状況です。

 

高尾山古墳の大きさと形についてですが、古墳の長軸は南北方向を向いていて、墳丘の全長は約62.2メートル、前方部長は30.8メートル、後方部長は31.8メートル。そして墳丘は周溝と呼ばれる溝に囲まれています。周溝の幅は約8メートルから9メートルですが、南側のみは約3メートルと短くなっていて、しかも南東部の一部は周溝が無く、一種の橋(土橋)があります。また古墳の南側約4メートルのところに幅約1メートルの溝があって、これも古墳を構成する要素のひとつであると考えられています。

古墳の高さですが、前方部は後に神社(熊野神社)が建てられた際に削られてしまったこともあってはっきりわかりませんが、あまり高くはなかった(高くても1メートル程度?)と推定されています。一方、埋葬施設がある後方部はかなり高く、築造当初は約5メートルあったと考えられています。後方部も後に高尾山穂見神社が建てられるなど、築造当初からかなり大きく改変されています。また古墳の西側はかなり以前から道路となってしまっていて、戦時中には後方部墳丘に防空壕が掘られましたが、幸いなことに発掘調査の結果を加味すれば築造当初の様相がかなりの確度で推定可能です。つまり古墳が出来た後の1800年近くの間に、全く古墳としての現状をとどめないほどの変容を受けたわけではなく、比較的良く保存されてきたことがわかると思います。

 

高尾山古墳の前方後方墳としての形は、かなり整っていて完成されたものに近いです。これは古墳としては後出の要素、つまり前方後方形が生み出された直後ではなく、しばらく経った後のものであることを示唆しています。一方、古墳の南東部に土橋があるのは古い要素とされています。古墳の形から見て、高尾山古墳は古い要素と新しい要素の混在が見られるのです。

 

また墳丘の長さが60メートルを超えるということは、大きな注目点となるところです。実は高尾山古墳のように古墳の出現期に築造されたと考えられている有力な前方後方墳がいつくかあるのです。

 

  • 高尾山古墳(静岡県沼津市 墳丘長約62メートル)
  • 弘法山古墳(長野県松本市 墳丘長約66メートル)
  • 小松古墳(滋賀県長浜市 墳丘長約60メートル)
  • 駒形大塚古墳(栃木県那須郡那珂川町 墳丘長約61メートル)

 

皆、揃いもそろって墳丘長60メートル台!偶然としては出来過ぎではないでしょうか?これら墳丘長60メートル台の出現期の有力前方後方墳について、箸墓古墳を中心とした古墳ヒエラルヒーとは無縁ではないものの、正式加盟していない状況を示していると解釈している専門家もいます。箸墓古墳の被葬者を卑弥呼とするならば、卑弥呼の影響力を受けつつもまだ独自勢力としての地位を保っていた首長の中で、高尾山古墳の被葬者は最有力な人物のひとりであったということになるでしょうか。